メモ|ジャーナル

野村政之のメモとジャーナル

観た人の岡崎藝術座 2人目:阪根正行さん(元書店員/「アラザル」同人)[2]

< 前回

f:id:nomuramss:20130528112926j:plain
青年団若手自主企画『昏睡』(作:永山智行[こふく劇場]/演出:神里雄大 2009.8)©河村竜也

▶場所性とアイデンティティ

――振り返ってみると僕は神里くんの作品にそれなりに関わっていて、『三月の5日間』、「りたーんず」、『昏睡』、鰰『動け!人間!』、『レッドと黒の膨張する半球体』とかあるんですけど。
一番ガッツリ関わってるのが『昏睡』で、そのときには「この台本どうする?」みたいなところから、付き合ったんですね。『昏睡』の台本は、ふつうによむと、ヨーロッパの演劇から生まれたテキストの雰囲気というか、そういう言葉でつくられたテキストだと僕は読めて、色でいったら青白い感じだったんです。それがなんか神里くんは、「このテキストは、なんかあんまり土っぽくない、大地みたいな感じじゃないから、大地みたいにしたい」と言って、実際、演出でもヤシの木がスーツケースの中からはえてきたりとか、わりかし南の島みたいな感じのイメージだった。赤黄色いというか、暖かい、冷たくない作品になったな、という印象の作品になっていて、これはたとえば『グァラニ―』もそうだったし、石とかコンクリじゃなくて土みたいな感じとか、なんだろう、温度がある感じとか、そのへんがちょっと特徴的だなぁ、みたいなのはありました。
神里くんと南米、っていったときに僕のなかで思いつくのは、そのことと、変なふうに言葉が接ぎ合わされるというか、一緒になることで、この両方があるのが南米かな、と。
阪根 僕のなかにも『昏睡』はすごく強い印象を刻んでますよ。あのときの山内さんと兵藤さんはすごかった。なんせすごかった(笑)。この前のサンプルの『地下室』の山内さんも凄かったけど、あの『昏睡』のときの山内さんはその比じゃない(笑)。
青年団の俳優のレベルの高さはほかの作品を見ててもわかるんだけども、オリザさんの作品って俳優のポテンシャルをフラットにコントロールしてるような感覚があって、東京デスロックの公演を観た時に、「え、この人青年団の人じゃないの?」「こんなことできちゃうの?」みたいなそういう驚きがやっぱりあった。
『昏睡』のときも、トークショー聞いたんですけど、若造の神里くんが、怖いもの知らずっていうか、「だって山内さん全然台詞覚えないんだもん。僕のほうがよく覚えてるよ」とか平気で山内さんの前で言ってて、
――(爆笑)
阪根 オリザさんが山内さんに演出をつけてダメ出しするんだったらわかるんだけども「それだけ遠慮しないからこれだけのことができるんだな」というか。その波長の引っぱり出し方というのが凄いなと思ったんですね。
――確かに、その波長の引っぱり出し方が神里くんの何モノかだと思いますね。さっき『哲学と自然』(中沢新一・國分功一郎著)を読んでいて「直観的」という言葉が出てきて、そういうことなのかなと思ったんですね。なんかついつい解釈から入っちゃう感じとか、意味づけて整理してしまう感じがあるんだけれども、神里くんはそういう感じでもないな、というか。
俳優に直に行く、というか。例えば山内さんていう俳優がいたら、その人の振れ幅があるわけですよね。その振れ幅の軸が、軸が多い振幅、エネルギーがどれだけ出るかとか、体が動くかとか、声がどうかとか、そういうことの幅をわりかし最大限に使って、引き出してくるみたいなことはある。
『昏睡』は凄いエネルギッシュだったし、あったよな。とか。
阪根 今回の公演でいえば、柿喰う客の大村わたるさんはすごく楽しみですね。観ててうまいのはわかるし、中屋敷くんの演出にも応えていると思う。でもそれだけじゃないものを持ってる人だと思うし、それを神里くんが引き出したときに、大村さんがどう応えるか、あるいは裏切るか、というのはすっごく楽しみ。
ブログにも書いたんだけど、『ヘアカットさん』の時、僕が観に行った理由の何割かは内田慈さんと坊園初菜さんが出てたからなんですよ。前田司郎さんの作品で坊園さんがいい演技をするってのがあったのと、内田さんはいろんな劇作家の作品に出演していて、それで神里くんの作品に出るっていうので行ってみたら、ちょうどアフタートークでふたりに質問できたんですよ。
神里くんの作品はどう考えてもふつうじゃないというか「なにかしら俳優側としてもモードを切り替えないといけないのかな」と思って、「神里くんの作品って訳わかんないですけど、俳優としてはちゃんとわかるんですか?」みたいなことを聞いたら、それに対して「むしろ「わからない」といわれることがわからない」って言われてびっくりしたんです。「神里くんの演出の指導は的確だったから、演技していて、これはどうしたらいいかわからないということは無かった」と。
――ね、それが実感なんでしょうね。
阪根 僕の想像では前田さんの作品と神里くんの作品を演じるんだったら迷うだろうなーと思うんだけど、全然そんなことないですよ、ってことだったので(笑)
――意外とね。なんなんだろうなぁ。だけど出来上がってるものは全然わけわかんないものとして見えるんですよね。
阪根 あと『ヘアカットさん』は岸田國士戯曲賞の最終候補にノミネートされた作品で、その年に柴くんが『わが星』でとったじゃないですか。
――とりましたね。
阪根 同い年だということもあって、当然ライバル心もあるんだろうけど、そのときに神里くんは怒ってたというか、「なんでわかんないんだよ」みたいなことを言ってるのを僕は聞いてたんです。
――そうなんですね。僕は『わが星』側でかつ同じ落選作(松井周『あの人の世界』)の側でもあってそれはそれで複雑だったので、あんまり知らなかったです(笑)。
阪根 観てるときは「『ヘアカットさん』っていってるのにヘアカットさんなかなか出て来ねえな」みたいな感じだったけど、出てくる人の名前が「大崎」とか「目黒」とか地名で、テキストのレベルでいえば神里くんはそれを全部意味づけているというか、厳密に区別して書いていたんだなと。ただ観てるだけだと全然わからないけど、けっこう奥深い作品だったんですね。
だから神里くんの中で、『ヘアカットさん』は、単に演出が変わってるとかじゃなくて、テキストをちゃんと読めば、コアなテーマが出てくるものを書き上げた、っていう自信があって、ノミネートされたから「それなりに読んでくれるだろう」と思ってたのが、誰もそう読んでくれなかった、そのことを怒ってたんじゃないかと思ったんです。
――なるほど。僕も全然わかってなかったですけど「今まで観た神里作品のなかで『ヘアカットさん』の最初の30分が1番か2番」が持論です(笑)。
阪根 それが『隣人ジミー』とかになってくると、要するに「そこにもともと居る人」と「そこじゃないところから来た人」が混ざった時に起こる問題、みたいなことになっている。南米とかペルーのことも絡むんだけど、「場所性」とか「アイデンティティ」のことが問題意識としてはっきりしてきたと思いますね。
――それはそうだと思いますね。
阪根 神里くん自身の経験で、「出身どこ?」とかってよく言われてしまうって。ペルーとか言うといちいち説明しなきゃいけなくなって、「ハーフなの?」みたいな質問も悪意なくされるし、もううんざりしたと。
そういえば『グァラニ―』のときにもそういう話はやっぱしてたなと。そのときは町田の話でしたけど。町田って、東京都なんだけど、例えば小田急に乗って行ったら、多摩川わたってまず川崎になって一回神奈川になって、町田になったらまた東京になって、そこからまた神奈川になる。じゃあ「町田って東京なの神奈川なの?」みたいなことになる。境界の問題ですね。町田くらいだったらべつに大した問題になることはないんだけど、境界のあいまいさみたいなのを、ずっと一貫して神里くんは書いてるんだと思うんですよね。
――なるほど。それは面白い言い方ですね。確かに、場所、ないしは場所の名前みたいなこと神里くんの作品を読み解く上では重要なファクターである感じはします。これに関してはいくつかエピソードはあるんですけど、『三月の5日間』をやるときに、もともと今、日暮里にある「d-倉庫」がオープンするから、安くなってるとかで、そこで『三月の5日間』をやるのはとてもいいんじゃないか、といってたんです。
神里くんは「自分は川崎で、この戯曲(『三月の5日間』)は横浜~六本木ラインみたいな空気の世界だ」と。それで、横浜~渋谷~六本木というのは西からものがやってくるラインで、それに対して日暮里、山手線の東北ゾーンは上野に近くて、東北から来るものを受け止める場所で、そういう人たちが住んでいる。そういうようなことをやろうとしていたんです。やろうと思ってたら、d-倉庫のオープンが延びて出来なくなり、それで新百合ヶ丘(川崎市アートセンター)と上野(上野広小路亭)でやった。
阪根 ああ。
――その神里くんが、横浜の急な坂スタジオの若手育成プログラムで、「横浜のアーティスト」みたいなのになったというのは、だから僕個人としてはものすごく意外で、その頃すごく横浜とか渋谷とか毛嫌いしてたから「おい、どうしたんだ!?」みたいなのは僕はあったんです(笑)。
阪根 (笑)

『三月の5日間』の公演のときは、神里くんから「なにやればいいすかね?なんか面白い本ないですか」みたいに聞かれたので、当時まだ誰も他の人が演出していなかった『三月の5日間』を薦めて、結局やることになったので、そのままの流れで制作面のことを少し手伝った。公演の準備中にちょうど僕が『新・都市論 TOKYO』(隈研吾・清野由美)を読んでいたので薦めたら、神里くんがそこに引用されていた『東京育ちの東京論』(伊藤滋)に興味をもって、上で言っている「西からものがやってくるライン」「東北から来るものを受け止める場所」とかはその本に書かれていることによる。
このときから僕は「神里くんはやけに場所にこだわりがあるな」と思っていたが、そのことと、『グァラニ―』に端を発し最近の神里くんの作品に顕著に見られる「アイデンティティ」「ナショナリティ」のことがリニアに繋がるのだ、というのはこの阪根さんの話で初めて自覚したことだった。この切り口は今後の作品においてもよく確かめたほうがいいのかもしれないと思った。

>

> 岡崎藝術座のWebサイト

 

観た人の岡崎藝術座 2人目:阪根正行さん(元書店員/「アラザル」同人)[1]

< 前回

阪根正行さんは、以前ジュンク堂新宿店の書店員をされていて、書棚の特集やトークイベントなど精力的に企画をされていた(今は全然違う仕事をされている。批評誌「アラザル」の同人としても活動中)。僕とのつながりは、2009年の「キレなかった14才♥りたーんず」のときと、その年の秋に、ジュンク堂新宿店で演劇と本をからめた企画書棚を開催させてもらった頃に遡る。そのくらいの時期から、こまばアゴラ劇場にも足しげく通ってくださっていて、他の劇場でもよくお会いした。
で、また、阪根さんのブログが個性的というか、演劇という「異文化」との遭遇に向き合いながら綴られる内容がいつも興味ぶかかったのである。とくに「神里くんの作品を南米文学を通して理解することはできないか?」というあたりの猪突猛進ぶりが微笑ましいというか、目を見張るというか、阪根さんがそれを書く時のエネルギーが、気になっていた。
前回の大崎さんとの話…神里くんの作品はテキストで成立してる…みたいなことにまた別角度から光を当ててみるにあたり、阪根さんがいいんじゃないかと思ったのはそのへんからだった。

f:id:nomuramss:20130525202156j:plain
『古いクーラー』(2010.11)  ©富貴塚悠太


▶神里作品を観ると南米文学が読める(笑)

阪根 神里くんの作品の観たのは「りたーんず」(「キレなかった14才♥りたーんず」)『グァラニ― ~時間がいっぱい』が最初で、何作品か観て、だんだんわかってきたところもあるし、そのときそのときで感じ方が違うのもありますね。そのなかで「言葉」を一番感じたのは『古いクーラー』。
『グァラニ―』のときは「ホントわからない」という印象で、杉山圭一さんと高須賀千江子さんの独白のシーンが多いな、という印象はあったんだけど、中身までどうこうという所までは感じられなかった。それが『古いクーラー』の時には、「言葉」というテーマを真正面からやってきたな、という印象で。
――『古いクーラー』がよかった、っていう人結構多いんですよね、実は僕観てないんですけど。
阪根 演劇はなんでもできちゃうというか、いろんな要素を組み合わせて作品をつくりあげることができる、にもかかわらず、『古いクーラー』は、俳優がたくさん出てくるんだけど、基本的に一人ずつ俳優がポンと出てきて、独白というか、そんなレベルじゃないかなり長い話をするんです。テキストもポエティックというか、そのままでは理解できないような内容で、なんというか、話しながら/話していくうちに語呂合わせでどんどん変化していくという感じで。ほんと「テキストに賭けてるな」って感じました。ともかく俳優さんが出てきて、ただ台詞を言うだけ(笑)。「ここまでやっちゃうんだ」と、神里くんはテキストに対する意識が相当強いんだと感じましたね。
――戯曲で読んでもそんな感じでしたか?
阪根 それで、神里くんとその作品について何か書いてみようと思って台本読んでみたんですけど、『古いクーラー』のテキストはうまくいってると思いますね。神里くんは演出のインパクトが強いから、ほとんどの人がテキストの中身にまで意識が届いていない。だからこそ、『古いクーラー』は神里作品のなかでは外せないというか、もう一度じっくり検証したほうがいいかもしれないと思ってます。
ただ、神里くんのなかでも刻々と変化していて、この前の『隣人ジミーの不在』の場合は、チェルフィッチュの山縣太一さんがいたからというのもありますけど、俳優の身体というか、テキスト/語りというよりは、俳優の身体を露呈させるみたいな感じでしたよね。
――そうですね。僕は、『R.U.R. -ロボット』観て、『オセロー』観て、なんというかまあ、めちゃくちゃで、めちゃくちゃだったけど面白くて。そのあと一人芝居があって、そこでその時までの劇団員がぬけちゃって、で『三月の5日間』をやって、それもめちゃくちゃやって、でもそれで評判になって、神里くんがもともと持ってた破壊っぽい感じと岡田さんの言葉と身体のこととかが妙な組み合わせになって、という経緯のなかで、最近はだんだん、昨今のモードにあってきてるというか、わりかしミニマルな身体性みたいなので魅せるみたいなことになってきたな、と、僕のざっくりとした印象はそんな感じですね。
それで本人にも「自分のじゃないテキストでやってみたら?」とか言ってたら、去年『アンティゴネ/寝盗られ宗介』をやるというので、すごく期待していたんだけど、まあ、いい作品ではあるんだけど「俳優の身体で見せてるんだなぁ」「静かだなぁ」とか思っていて、『隣人ジミー』のもそんな感じだったので、去年のF/Tの終わり頃に二人で呑んだ時に「もっとちゃぶ台ひっくり返してもいいんじゃない?っていうかそういうんじゃなかったっけ?」とかいったりして。なんかその日は数年ぶりレベルですごく意気投合して、それで、なんだかだんたんと今回制作手伝うような流れになった、という感じです。
それまでは「神里くんもなんかなんとかなりそうだな」と思ってあんまり触らないでいたんだけど。

阪根 観て納得しちゃうのは、神里くんにとっていいことじゃないのかもしれないですね。初めて『グァラニ―』見たときに「なんじゃこいつ?」っていうのがあって、『リズム三兄妹』みたときも、馬鹿馬鹿しいんだけど「なんじゃ?」と思った。それでいうと、『古いクーラー』とか『隣人ジミー』とかは、「なんじゃ?」感はあるけど、ある意味すごく突き詰めてるというか。鰰『動け!人間!』の「淡水魚」のプログラムで稽古の場面を見ることができたから、演出の付け方を見てたら、すごく的確にパチ、パチっと指示を与えていく。神里くんはトークショーでははぐらかすけど、「何もわかってませーん」っていう人じゃないよな、と。
――結構、神里くんと南米の関わりみたいな感想は何人かみたことあるんですけど、僕、阪根さんがブログで書いてるのがなんか一番印象が強くて、これなんなんだろうなーと思ってるんです。阪根さんはどういうつもりで書いてるんですか?
阪根 神里くんがペルー生まれだっていうのを知っていて、そういう先入観があるからかもしれないけど、でも作品を観てもそういうのは感じて、ブログで南米の文学とかのことを書いたんですよね。
僕はもともと建築をやっていたんだけど、南米で著名な建築家というとブラジルのオスカー・ニーマイヤーとかメキシコのルイス・バラガンとか。確かに色の使い方とか造形感覚に特徴があるんだけど、あまり謎めいた感じはない。南米と言えば、やっぱり文学。ボルヘスとかガルシア=マルケスとか。そういう人を意識した作家って日本にも何人かいるんだけど、ガルシア=マルケスを読んで「面白い」っていってガルシア=マルケスみたいな作品をつくる人と、「自分がつくったものがガルシア=マルケスみたいになってしまう」という人では全然違うと思うんですよ。それは気質の違いとかも含めて。
神里くん自身はどう感じているのか知らないけど、彼が素でやる作品はやっぱり、そういうものになってしまう/なってしまっている、と感じるんですね。南米文学をしっかり読んで受容した日本人の作家が書いた作品を読んでも、やっぱり違うなーって思うし、逆にボルヘスとかガルシア=マルケスを読んでも、やっぱり分かんないなーって思う。どっちもダメなんだけど、そんな時に、神里くんの作品を観るのが一番ダイレクトでいいんじゃないかって。神里作品=南米というわけじゃなくて、これがなにかはやっぱりわからないんだけど、この分からなさを実感してから、ボルヘスとかガルシア=マルケスを読んだら、意外と読めたりする。


「キレなかった14才♥りたーんず」のときの神里くんの自伝的作品『グァラニ― ~時間がいっぱい』では、パラグアイでの少年時代と、日本に住むようになってからの学校生活、あと町田でそれを書いている現在の自分というのが描かれていた。お話としては「カルチャーギャップもの」みたいにくくればくくってしまえそうなストーリーだったが、やっぱりその出方の球筋が全然違うというか、同じく自分の少年時代と現在を描いた柴幸男くんの『少年B』の「ベタとそのズレ」と対比すれば、「そもそも食い違っているが表面的にはベタ」というような感じで、成り立ち方が正反対な感じさえした。
阪根さんのいうように「素でやるものがそうなってしまう」結果として生み出されている作品を、どういう角度から観て捉えるか、そのへんがいつもややこしいというか、ともすれば、自分の価値観を正当にして押し通せてしまいそうな微妙な雑種感があるんだよな、と思う。

>

> 岡崎藝術座のWebサイト

観た人の岡崎藝術座 1人目:大崎清夏さん(詩人)[3]

< 前回

f:id:nomuramss:20130504114332j:plain

▶言葉が露出させる想像

――他に印象的だった作品はありますか。
大崎 鰰(『動け!人間』「深海魚」プログラム/2010年4月)で兵藤公美さんがやった役の人が、懸賞のはがきを書いて投函するまでを、身振りと言葉でずっとやっている一連のシーンがあって。そこのところの言葉が凄く面白いと思った記憶がありますね。動詞でリズムをとっていくというか、書いて、切手を貼って、ポストに投函する、というのがずーっと繰り返されてく。
――あったあった。
大崎 ぐるぐるぐるぐるすると発電する装置みたいな感じ。動詞とか名詞とかぐるぐるやってたら、こんなのが出たよ、という感じ。詩でも短編でも、テキストでも演劇でもそれでつくられているという感じはしますね。
――確かに。他には?あの、詩集のあとがきで書いてる一人芝居(『雪いよいよ降り重なる折なれば也』)は何が良かったんですか?
大崎 どこまで神里くんが意図してたかわからないんですけど、演劇を観たあとに、演劇を観た場所で、芝居していた役者さんが去って、ほんとのママさんが入って、そこで実際お酒が呑めるようになって、呑んでて、知らないおじさんが入ってきて…みたいなところまで含めてひとつの流れになっていて、「今、なんて不思議な空間なんだろう」と。それこそ今日、品川を歩いたら、街の風景に今は無い「海」が見えてきたのと同じで。ママと私の関係は今お酒を出してもらって呑んでるだけなんだけど、私にはママの人生が見えているというか、バー空間がさっきまでと違って見えるようにしてくれた芝居だったので、それが凄く楽しかった。
『三月の5日間』も、道路端で座ってみていると、道路が違って見えてくる。そういう現象が私は好きですね。
神里くん本人は、「そっちの方向はあんまり封印していこう」と何年か前に言ってたような気がしますけど。「とんでもないことをやれば、お客さんは、わー、ってなるけど、それだとそれだけになっちゃうから」と。
バーのママの人生を誰かが演じたら、そのバーの歴史をずっと自分も観てたような気がするなんて、演劇以外の方法ではなり得ないことだと思うから、そういうことを私はいろいろやってみてほしいというのはあります。
――劇場でやることが増えてるからね。とはいえ、神里くんの作品は言葉で成立してるってところが大きい。
大崎 たぶんそうだから、ずっと観てるのかな、と思います。

このインタビューの前に、大崎さんと一緒に『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』東京公演の会場、北品川フリースペース楽間の周辺を歩いた(4月24日に神里くんとPLATEAUの皆さんと一緒に歩いたところ)。旧品川宿に楽間はある。地面の傾斜や地図に描かれた地形などから、江戸時代まで通り(旧東海道)のすぐ南に海があったことがすんなり呑み込めてくる。そのうち、今立っている地面も海だったんだなぁ、と今ある建物が舞台装置のように見えてくる。言葉が場所や空間の名前や機能を固定する、というのと逆の、言葉が埋もれた地層を露出させる、という感じだろうか。そんな感じのことが、演劇でもたしかによくある。
一方で、僕はいつも神里くんのテキストに対して、印象がないように思っている。「わからない」というか「こうだ」というふうにつかめない、振り返るとうまくまとまりがつかない、というか。「こういう感じなんだけど、いや、でも違うな」みたいに必ず「いや、違うな」がまとわりついてくる感じがする。

大崎 物語として面白いというよりは「このフレーズをこんなに遊んじゃいました、いいでしょ?」みたいなことがたくさんありますよね。神里くんの演劇って、そういうものがつながってる感じがして、で、1個1個のフレーズに対して、すごくいいね、とか面白く無いな、とか、こっちは勝手に思う。だから私は、見終わったあとどういう作品だったっていうのはつかめなくて、部分的に「ポストの投函」とか「あそこのリズムがよかったな」とかそういう印象で記憶してる。
――たしかに、ある種のあり得ない風景が想像される、というようなことが起きてるのが、面白いところで、それは言葉で成立してるからこそで。
大崎 だから作品全体として、こう盛り上がって、こう結末があって凄かった、みたいな受け取り方ではないですよね、いつも。
――その時の、刻々の言葉が訴えかけていくなにかが並んでるという。
大崎 たぶん、私がバーの一人芝居が好きなのは、そこに一本ママの人生っていうのが、長大なストーリーとしてたってるから。そこに勝手に筋があるわけじゃないですか。そしてその周りに面白い言葉がいろいろあって、ということになってたから、「ママの人生」という物語としても、1個1個の言葉、「遊び」っていう部分でも、面白いと思ったのかもしれない。
――なるほど。ひょっとしたら、今回の『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』はなんかうまくいくかもしれない、と想像しました(笑)。すっごい乱暴な話だけど、要はその一人芝居は、「伝記」っていうジャンルで、一本通さなくても筋が通ってるという。一方今回は「ミステリー」というジャンルらしいので、「ミステリー」がどういう意味でも、犯人探しじゃなくてもいいし、謎が解けなくてもミステリーってもはやいいと思うんだけど、その中で、最初から最後までミステリーしてたらそれでいいんじゃないか?…という感じで。意外と今回いいのかも、というインピレーションを得ました(笑)。
大崎 あー楽しみですね。ここ数年『相棒』が好きでよく見てるんですけど、うちで「ミステリー」っていうときの定義は「最後にどういう風景が見えるかだ!」っていう話をいつもしてて、
――というと。
大崎 最後に見える風景というのは、最初の風景なんですよ。
――そうか!なるほど。一周して戻ってくる。
大崎 ミステリーとかサスペンスでは、犯人がそもそもなんでそんなことをしたのかっていうのが最後に見えるわけじゃないですか。その最後に見える最初の風景がいい風景だったら、それって凄くいいミステリーだよね、っていう話をしてるんです。
――あとバーの一人芝居のキーはもうひとつあって、それは「位置」だよね。その位置を誰が占めてるのか。カウンターの向こう側に、人生の断片を演じる人が居た後に、その人自体が断片となって退き、そこに現在のリツコさんが来た、っていう事自体も演劇としてできてるというか。
大崎 そうそう。だからリツコさん自身は演じてるつもりないんだけど、見ているほうには演技にしか見えなくて、「これって演技だよなぁ」って思わされたりするんですよね。
――あの詩集のあとがきに入れるってことはよっぽど印象的だったんですね。
大崎 そうですね。あと、あの文章が気に入ってたっていうこともあります。
――ああ、文章自体はすぐに書いてブログに上がっていたやつを入れたと。
大崎 そうですね。でも、神里くんの演劇観て、毎回感想文書くわけじゃないから、印象的だったんでしょうけど。

※大崎さんが観劇した頃に書いたブログ
http://blog.livedoor.jp/silent_momo/archives/2007-12.html

まだうまく表現できないが、このインタビューを通して、僕が考えたことはこんなことだ。
「破壊したらしっぱなし」で「言葉(だけ)で成立している」神里作品は、作中人物に役者がなり切るって物語が語られる形の演劇とはだいぶかけ離れたところにある。物語的に回収される予定のない断片/出来事が降り重なる、人生のひととき/断片のようなものとみたほうが近い。でも、なぜかはわからないがともかく、作品を観るときにはそういう「演劇作品」として理解しようというスイッチが入っている。舞台上で起こる様々な出来事に「回収」を期待している。その矛盾というか摩擦が「わからない」というような印象を残しているのではないか。
既存の作品を演出する場合や、『雪いよいよ降り重なる折なれば也』のように空間と時間の隠れた層をあらわにするような作品の場合、そこの摩擦が緩和されたり、あるいは媒介するなにかがあるために、観ている側が勝手にひとつにまとめあげるのに成功して、受け取りやすくなるのかもしれない。でも、そのとき残るのは、やはり断片の感触のほうだ。
そうすると、神里くんの新作戯曲でツアーもある、という今回のような形での公演が奏功するために僕が思いつくのは2つの方向になる。「伝記」や「ミステリー」のように、なんらか媒介されるような共通了解を枠付けるか、「わかる/わからない」の判断をぶっ飛ばすくらいの「感触」で圧倒するか。あるいはその掛け合わせの合わせ技。
もちろん、ほかにも選択肢は考えられるし、これは現状進んでいる『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』にフィットさせた仮説にすぎない。こうやればうまくいく、みたいな特効策はないけれども、DVDを焼く時の「ファイナライズ」みたいなことに、今回はちょっと注意を払ってみようかしら、と思った。ファイナライズをするのが、演る側なのか、観る側なのか、は現段階ではわからない。が。


(1人目おわり)
※インタビューは2013年5月4日に行った。

>

f:id:nomuramss:20130504125509j:plain

 

観た人の岡崎藝術座 1人目:大崎清夏さん(詩人)[2]

前回

f:id:nomuramss:20120418181645j:plainアンティゴネ/寝盗られ宗介』(2012) ©富貴塚悠太

▶テキストについて
大崎 そういえば大学の頃、校内で偶然会ったりすると、ちょろちょろって書いた文章を神里くんが出してきて、読ませてくれたりしてました。私が「ここはこうだね」とか感想いったりして、神里くんはそれを聞いて、そそくさとカバンに戻す、みたいなことがよくありました(笑)。みんなに見せてたのかなぁ?
――(笑)それは小説ですか。
大崎 詩もあったし、短編小説みたいなのもあったし、いろいろ。もともと神里くんと出逢ったのが大学の小説の基礎演習クラスで、自分がみんなに読んで貰いたい小説を1冊選んで、それについて文章を書くような時間だったんですね。神里くんはバロウズの『裸のランチ』を選んできたんだけど全然みんな読んでくれなかった(笑)。あんまり本屋に置いてなくて、みんな見つけられなかっただけだと思うんですけど。
――それで「文章表現つながり」みたいなことになったんですね。
大崎 そうですね。それで学校で遇うと文章を見せ合ったりしてたと思います。でもその後神里くんと授業が被ったことはほとんどなくて。1年生の時に神里くんの演劇を見始めてなんとなくその習慣が続いてたから、見に行けば会う、会えば喋る、という感じでした。文章を見せてくるのも、たまたま会ったとき。たぶん今は友達だと思ってくれてると思うんですけど(笑)、卒業するくらいまではそんなに友達っていう感じじゃなかったですね。
――その時の感じは、やっぱ変な人だったんですかね?
大崎 変な人でしたね。
――どこに神里くんの核というかアイデンティティがあるのかというか、「こういう人だ」というのが実のところわからない感じが、神里くんの面白いところだと思うんですけど。
大崎 そのクラスの人たちで行ったカラオケで、みんな寝ちゃって4時頃になったときに、爆音で『トレイン・トレイン』を熱唱しだして、その時に私は「今後あんまり個人的には深く関わらないようにしよう。でも演劇は面白いから観に行こう」と思ってたんですよね(笑)。
――大崎さんのなかで、その神里くんという人と神里くんの演劇はどういうふうにつながってたんですか?実は、こうやって、「観客」へのインタビューのシリーズをやろうと思った理由はそこでもあるというか。僕もあんまりわからないので、他の人の話を聞いてみよう、ていうか。
大崎 作品を見たり読んだりすると、いろんなことが気になっていろいろ聞いてみるんだけど、こっちが望んだ回答はしてくれない人だというのがだんだんわかってきて。なので、「ここをこじ開けたら向こう側にこの人の何かが潜んでるだろう」みたいなことをいつからか諦めてる感じが私はあって、「いっか、それでも」(笑)ってところで付き合ってて。
だから演劇でどんなことを見せられても、私に神里くんの何かとして見えてるものがないから、受け入れられるっていうか(笑)。作品を観て神里くんの何かがわかるとは思わずに観ているし、そこがつながってなくても別に私も困らない、みたいなところがありますね。でも考えてみれば不思議なことですね。
大学4年のときも、いきなり「港の関係の仕事につくことになった」とか言われて、「なんで?」と聞いても、ふにゃふにゃちゃんと答えてくれなかったり(笑)。
――大崎さんが神里くんのテキストについて感じてることはありますか?
大崎 テキストだけで組み立てられる人なんだな、って思います。「何かをうまく描写する」「ここにあるものを書き写す」っていうことじゃなくて、「テキストに全部の世界がある」っていうことが見えてる感じがするっていうか。
――言葉で為したことが世界になる、という。
大崎 言葉以外にはなにもないことがわかってるというか。「うまく言えない」っていう言い方があるじゃないですか。「うまく言えない」というのは、何かがそこにあって、それをうまく言葉にできない、っていうふうに考えることだけど、そういうふうには考えてなくて、うまくいくもいかないも、言葉のレベルでしかない。神里くんがどういうふうに考えてるかわからないけど、言葉がある場所でしか起こらないことがされてる。
――なるほど。だからこそ、言葉がすごく変な接ぎ木されている感じがいつもあるのかなぁ。
大崎 そうですね。

「テキストに全部の世界がある」というのは、なるほどなと思った。
これは神里くんが既存の戯曲を演出するとなぜ魅力的に思うのか、というところに通じると思う。作家の言葉を接ぎ木して「書いている時間」、言葉が世界を生み出す時点に迫り、感触を手づかみで取り出してくるような印象を持つことがある。だからこそ、全体の構成から想像したり、大枠から逆算的に解釈するのとはまったく違う相貌が立ち現れるのではないか。
あと、同じところから、例えばサンプルの松井(周)さんのように、戯曲を書くことと演出することが互いに刺激しあい循環するような「作・演出」と違って、神里くんがはっきりと「作家と演出家は別」と断言する訳も受け取れてくる。そして、神里くんの人となりと演劇作品が別のことに思われる理由も。

>

> 岡崎藝術座のWebサイト

観た人の岡崎藝術座 1人目:大崎清夏さん(詩人)[1]

f:id:nomuramss:20130504115417j:plain

詩人の大崎清夏さんは、自身の詩集『地面』の終わりに、あとがきに代えて、2007年12月の岡崎藝術座の一人芝居『雪いよいよ降り重なる折なれば也』を観劇した日のことを綴っている。神里くんとは大学時代の同級生で、岡崎藝術座結成前にサークル(劇団森)で上演された作品から現在まで神里作品を観ている数少ない存在でもある。
僕がこれまで観てきたこと、加えて、神里くんや昔から神里くんのことを知っている人から聞いた話を合わせると、利賀演出家コンクールの前後、そして、『三月の5日間』の前後で、その作品のあり方は変わっているように感じているが、その一方で、外身が変わっても、変わっていない部分もあるような気がする。
大崎さんに話を聞きたいと思ったのは、すべての作品ではないにしても、学生時代から10年を越える長きに渡って、作品を観続けてることになったのはどのへんからなのか、というあたりだ。このことを通して、外身が変わっても変わっていない部分が浮き彫りになるかもしれないと思った。

▶ほったらかし
――なんのかんの言って神里くんの作品を続けてちゃんと観てるんですよね、大崎さん。
大崎 そうなんですよね(笑)、なんか神里くんの演劇好きだったんですよ。早稲田に入ってなんとなく「演劇を観なきゃ」みたいな雰囲気にさせられるじゃないですか、文学部にいると。それでいろんな演劇を観たんだけど、「あんまり面白くないな」と思ってたところで、劇団森の神里くんの作品を観て「他のと違う」って思って。それからずるずると、公演があると聞くと行く、みたいな感じの流れで。
――最初からずっと観てる人、他にあんまり居ないですよね?たぶん。
大崎 今も岡崎藝術座観てて、その頃も観ててという人はあんまりいないかもしれませんね。
――他の演劇とは何が違ったんですかね?
大崎 入学してすぐに幾つか観て、それでもう観るのやめちゃったんですけど、人間ドラマというか人情系というか、登場人物たちの人生にいろんな出来事が起こって、最終的に家族の絆が回復される、みたいな話が多くて、そういうのは私にはつまらなくて。私がたまたま選んじゃっただけかもしれないんですけど、
――一方その頃神里くんのはどうだったんですか?
大崎 そういうのじゃなかったんですよ、神里くんのは(笑)。なんていうか、破壊したらしっぱなし。今もそういうところありますけど、よくある感動パターンにはもってかなくていい、みたいなもので。
――ほったらかしな感じで。
大崎 それで、ほったらかしてる間に、別のところが大変なことになってた!みたいな。
――なるほど。その頃は、自分で書くのと、既存の戯曲を演出するのと両方あったのかなぁ、という印象があるんですけど。
大崎 カレル・チャペックの作品とかもやってましたよね。
――ああ、それは僕が最初に観た作品です(『R.U.R. -ロボット』/2007年6月)。
大崎 私はそれは観てなくて、その次のシェイクスピア(『オセロー』/2007年10月)を観ました。シェイクスピアなんていちばんまっとうな家族の悲劇のはずなのに、全然そういうものとして受け取れなくて、そこが面白かった。
――利賀で賞をとったやつ(『しっぽをつかまれた欲望』作:ピカソ/利賀演出家コンクール2006最優秀賞)は東京で観ましたか?プレビュー公演をやってたみたいですけど。
大崎 観てないと思います。シェイクスピアもピカソもチャペックも、元の戯曲があるものを演出するのが好きなんですかね、神里くんは。
――そんなに好きでもないみたいですよ。僕は1年に1回くらい、神里くんに「元があるやつやれば?」て言ってるんだけど、2007年くらいから、あんまりやらなくなっていくという感じがします。『オセロー』やって、一人芝居(『雪いよいよ降り重なる折なれば也』作・演出:神里雄大)をやって、それで『三月の5日間』(作:岡田利規/2008年8月)をやって、そのあとはほとんど自分で書いてるから。

僕が最初に観た岡崎藝術座の作品『R.U.R. -ロボット』では最後に大量の割り箸が数分間(の体感)の長さで降り続けたのが印象に残っている。役者は組体操みたいに3段で組んで2人の俳優を担いでいた。その上から「カラン…、カランカラン…、バリバリバリ!!」と割り箸が降り注いだのだ。すごくびっくりした。何でそんなことになるのかよくわからなかったが、インパクト狙いでそれをやっているようにも思わなかったので、なんかその時間の感触が印象に残っている。
そして、シェイクスピアの『オセロー』もそんな激しさをもった上演だった。こちらは、オセローへまとわりつく悪意とそれにより狂っていくオセローの混乱の、激しさの感触として印象にのこっている。ギザギザした感触、それが残っている。
付け加えると、僕が昨年のF/Tのあと、神里くんと二人で飲んでいるときに言ったのは、たとえばこのギザギザした感触のような部分は最近シュッとしてるよねということだった。

>

> 岡崎藝術座のWebサイト

観た人の岡崎藝術座 はじめに

岡崎藝術座と主宰の神里雄大くんの活動、僕はもうかれこれ6年間くらいつかず離れずの感じで付き合って来ました。
2006年の利賀演出家コンクールで最優秀演出家賞をとったということでその名を知り、2007年の『オセロー』@こまばアゴラ劇場の公演のときに本人とも知り合いました。その後2008年の『三月の5日間』(作:岡田利規)@川崎市アートセンター/上野広小路亭、2009年の「キレなかった14才♥りたーんず」@こまばアゴラ劇場、青年団若手自主企画『昏睡』(作:永山智行)@アトリエ春風舎、2010年の鰰『動け!人間!』(白神ももことのコンビ)@アトリエ春風舎、2011年の『レッドと黒の膨張する半球体』(F/T11主催プログラム)@にしすがも創造舎、と、濃淡はあれ、振り返ってみるとけっこう頻繁に手伝っています。
一方で2010年〜11年は立て続けに公演の観劇をスルーしていたりもするのですが。

「観た人の岡崎藝術座」では、岡崎藝術座の〈観客〉の立場の人に話を聞いて行って、その中で岡崎藝術座の作品や活動について考えを深めたいと思っています。

神里雄大と岡崎藝術座の作品は、ちょっとややこしいというか、わかりにくいと思われているふしがあります。そういう意見には反対しません。でもそこまで含めて、岡崎藝術座の魅力であるというようにも感じています(そのへんの具合については、「F/T12ドキュメント」に収録されている佐々木敦さん執筆の劇評「わかられたいが、わからせたくはないので、わかられない」をご一読いただけると)。


僕も、「わからない」とか「わかりにくい」とかいうようなことを、これまでに何回も思いました。実際に公演を手伝いながら「なんでスッキリしないのかな」とか。創り手のせいにすれば、まあ、簡単に結論を出すことはできるのかもしれません。
一方で、あるとき僕はこう思いました。
たとえば外国の人を前にしたときには、いつ自分と相手の違いが噴出するかわからないし、その違いは最終的に乗り越えられない可能性はある、と思いながらも、今共に生きていることを前に進める努力をする。でもそこを、神里くんとの関係においては油断しているのではないか。自分と同じような人間だと無意識に前提にしてしまって、そこを基点にして理解できるとかできないとかいうふうに切り捨てているのではないか。


2007年に僕が知り合うより前から彼自身は数十回の公演をやってきていたし、その前も、僕とは全然違う感じでそれまでの人生を過ごしてきている。にもかかわらず、なんとなく、現在時を共有していて、相手が日本人であるという無意識な前提だけで、自分に同化させようとしているのではなかったか。
「わかりあえないことから」(平田オリザ著/講談社現代新書)じゃないですが、でも、そこからわかろうとすることをしてみたらどうか、と考えました。

これにあたっては、舞台上で一緒に作業をして作品を作っていたり、演劇に詳しかったりする必要はとくにないので、作品を観て、なんか魅力を感じている〈観客〉の位置に居る人たちに話を聞きながら考えてみたい。一人の人間が考えぬいて圧縮された言葉からでなくて、食事でもしながら直観的に吐き出された言葉とか、その場の雰囲気から出てきた言葉から考えてみよう。複数の人の言葉から考えよう。
そんな感じでこれをやってみようと思いました。

> 次頁へ

> 岡崎藝術座のWebサイト

「野村政之のメモとジャーナル」始めます

いままでブログも転々とやってきていて、そちらはそちらで続けるかもしれませんが、「長いつぶやき」みたいな感じで長いことブログをやってきたのとは別に、もうちょっとジャーナル寄りというか、開かれた内容のことができるブログを始めてみようと思い立ちました。

とりあえず頭にあるのは、自分が携わっている公演や企画に関する告知+α的なこととか、どこかで見聞きしてきたことのレポート、そして僕が興味を持っている人へのインタビューなどです。

その手始めとして「観た人の岡崎藝術座」というブログ企画を始めます。
これは、僕が今度手伝うことになった岡崎藝術座新作公演『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』に絡めた企画です。