メモ|ジャーナル

野村政之のメモとジャーナル

観た人の岡崎藝術座 はじめに

岡崎藝術座と主宰の神里雄大くんの活動、僕はもうかれこれ6年間くらいつかず離れずの感じで付き合って来ました。
2006年の利賀演出家コンクールで最優秀演出家賞をとったということでその名を知り、2007年の『オセロー』@こまばアゴラ劇場の公演のときに本人とも知り合いました。その後2008年の『三月の5日間』(作:岡田利規)@川崎市アートセンター/上野広小路亭、2009年の「キレなかった14才♥りたーんず」@こまばアゴラ劇場、青年団若手自主企画『昏睡』(作:永山智行)@アトリエ春風舎、2010年の鰰『動け!人間!』(白神ももことのコンビ)@アトリエ春風舎、2011年の『レッドと黒の膨張する半球体』(F/T11主催プログラム)@にしすがも創造舎、と、濃淡はあれ、振り返ってみるとけっこう頻繁に手伝っています。
一方で2010年〜11年は立て続けに公演の観劇をスルーしていたりもするのですが。

「観た人の岡崎藝術座」では、岡崎藝術座の〈観客〉の立場の人に話を聞いて行って、その中で岡崎藝術座の作品や活動について考えを深めたいと思っています。

神里雄大と岡崎藝術座の作品は、ちょっとややこしいというか、わかりにくいと思われているふしがあります。そういう意見には反対しません。でもそこまで含めて、岡崎藝術座の魅力であるというようにも感じています(そのへんの具合については、「F/T12ドキュメント」に収録されている佐々木敦さん執筆の劇評「わかられたいが、わからせたくはないので、わかられない」をご一読いただけると)。


僕も、「わからない」とか「わかりにくい」とかいうようなことを、これまでに何回も思いました。実際に公演を手伝いながら「なんでスッキリしないのかな」とか。創り手のせいにすれば、まあ、簡単に結論を出すことはできるのかもしれません。
一方で、あるとき僕はこう思いました。
たとえば外国の人を前にしたときには、いつ自分と相手の違いが噴出するかわからないし、その違いは最終的に乗り越えられない可能性はある、と思いながらも、今共に生きていることを前に進める努力をする。でもそこを、神里くんとの関係においては油断しているのではないか。自分と同じような人間だと無意識に前提にしてしまって、そこを基点にして理解できるとかできないとかいうふうに切り捨てているのではないか。


2007年に僕が知り合うより前から彼自身は数十回の公演をやってきていたし、その前も、僕とは全然違う感じでそれまでの人生を過ごしてきている。にもかかわらず、なんとなく、現在時を共有していて、相手が日本人であるという無意識な前提だけで、自分に同化させようとしているのではなかったか。
「わかりあえないことから」(平田オリザ著/講談社現代新書)じゃないですが、でも、そこからわかろうとすることをしてみたらどうか、と考えました。

これにあたっては、舞台上で一緒に作業をして作品を作っていたり、演劇に詳しかったりする必要はとくにないので、作品を観て、なんか魅力を感じている〈観客〉の位置に居る人たちに話を聞きながら考えてみたい。一人の人間が考えぬいて圧縮された言葉からでなくて、食事でもしながら直観的に吐き出された言葉とか、その場の雰囲気から出てきた言葉から考えてみよう。複数の人の言葉から考えよう。
そんな感じでこれをやってみようと思いました。

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