メモ|ジャーナル

野村政之のメモとジャーナル

観た人の岡崎藝術座 1人目:大崎清夏さん(詩人)[3]

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▶言葉が露出させる想像

――他に印象的だった作品はありますか。
大崎 鰰(『動け!人間』「深海魚」プログラム/2010年4月)で兵藤公美さんがやった役の人が、懸賞のはがきを書いて投函するまでを、身振りと言葉でずっとやっている一連のシーンがあって。そこのところの言葉が凄く面白いと思った記憶がありますね。動詞でリズムをとっていくというか、書いて、切手を貼って、ポストに投函する、というのがずーっと繰り返されてく。
――あったあった。
大崎 ぐるぐるぐるぐるすると発電する装置みたいな感じ。動詞とか名詞とかぐるぐるやってたら、こんなのが出たよ、という感じ。詩でも短編でも、テキストでも演劇でもそれでつくられているという感じはしますね。
――確かに。他には?あの、詩集のあとがきで書いてる一人芝居(『雪いよいよ降り重なる折なれば也』)は何が良かったんですか?
大崎 どこまで神里くんが意図してたかわからないんですけど、演劇を観たあとに、演劇を観た場所で、芝居していた役者さんが去って、ほんとのママさんが入って、そこで実際お酒が呑めるようになって、呑んでて、知らないおじさんが入ってきて…みたいなところまで含めてひとつの流れになっていて、「今、なんて不思議な空間なんだろう」と。それこそ今日、品川を歩いたら、街の風景に今は無い「海」が見えてきたのと同じで。ママと私の関係は今お酒を出してもらって呑んでるだけなんだけど、私にはママの人生が見えているというか、バー空間がさっきまでと違って見えるようにしてくれた芝居だったので、それが凄く楽しかった。
『三月の5日間』も、道路端で座ってみていると、道路が違って見えてくる。そういう現象が私は好きですね。
神里くん本人は、「そっちの方向はあんまり封印していこう」と何年か前に言ってたような気がしますけど。「とんでもないことをやれば、お客さんは、わー、ってなるけど、それだとそれだけになっちゃうから」と。
バーのママの人生を誰かが演じたら、そのバーの歴史をずっと自分も観てたような気がするなんて、演劇以外の方法ではなり得ないことだと思うから、そういうことを私はいろいろやってみてほしいというのはあります。
――劇場でやることが増えてるからね。とはいえ、神里くんの作品は言葉で成立してるってところが大きい。
大崎 たぶんそうだから、ずっと観てるのかな、と思います。

このインタビューの前に、大崎さんと一緒に『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』東京公演の会場、北品川フリースペース楽間の周辺を歩いた(4月24日に神里くんとPLATEAUの皆さんと一緒に歩いたところ)。旧品川宿に楽間はある。地面の傾斜や地図に描かれた地形などから、江戸時代まで通り(旧東海道)のすぐ南に海があったことがすんなり呑み込めてくる。そのうち、今立っている地面も海だったんだなぁ、と今ある建物が舞台装置のように見えてくる。言葉が場所や空間の名前や機能を固定する、というのと逆の、言葉が埋もれた地層を露出させる、という感じだろうか。そんな感じのことが、演劇でもたしかによくある。
一方で、僕はいつも神里くんのテキストに対して、印象がないように思っている。「わからない」というか「こうだ」というふうにつかめない、振り返るとうまくまとまりがつかない、というか。「こういう感じなんだけど、いや、でも違うな」みたいに必ず「いや、違うな」がまとわりついてくる感じがする。

大崎 物語として面白いというよりは「このフレーズをこんなに遊んじゃいました、いいでしょ?」みたいなことがたくさんありますよね。神里くんの演劇って、そういうものがつながってる感じがして、で、1個1個のフレーズに対して、すごくいいね、とか面白く無いな、とか、こっちは勝手に思う。だから私は、見終わったあとどういう作品だったっていうのはつかめなくて、部分的に「ポストの投函」とか「あそこのリズムがよかったな」とかそういう印象で記憶してる。
――たしかに、ある種のあり得ない風景が想像される、というようなことが起きてるのが、面白いところで、それは言葉で成立してるからこそで。
大崎 だから作品全体として、こう盛り上がって、こう結末があって凄かった、みたいな受け取り方ではないですよね、いつも。
――その時の、刻々の言葉が訴えかけていくなにかが並んでるという。
大崎 たぶん、私がバーの一人芝居が好きなのは、そこに一本ママの人生っていうのが、長大なストーリーとしてたってるから。そこに勝手に筋があるわけじゃないですか。そしてその周りに面白い言葉がいろいろあって、ということになってたから、「ママの人生」という物語としても、1個1個の言葉、「遊び」っていう部分でも、面白いと思ったのかもしれない。
――なるほど。ひょっとしたら、今回の『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』はなんかうまくいくかもしれない、と想像しました(笑)。すっごい乱暴な話だけど、要はその一人芝居は、「伝記」っていうジャンルで、一本通さなくても筋が通ってるという。一方今回は「ミステリー」というジャンルらしいので、「ミステリー」がどういう意味でも、犯人探しじゃなくてもいいし、謎が解けなくてもミステリーってもはやいいと思うんだけど、その中で、最初から最後までミステリーしてたらそれでいいんじゃないか?…という感じで。意外と今回いいのかも、というインピレーションを得ました(笑)。
大崎 あー楽しみですね。ここ数年『相棒』が好きでよく見てるんですけど、うちで「ミステリー」っていうときの定義は「最後にどういう風景が見えるかだ!」っていう話をいつもしてて、
――というと。
大崎 最後に見える風景というのは、最初の風景なんですよ。
――そうか!なるほど。一周して戻ってくる。
大崎 ミステリーとかサスペンスでは、犯人がそもそもなんでそんなことをしたのかっていうのが最後に見えるわけじゃないですか。その最後に見える最初の風景がいい風景だったら、それって凄くいいミステリーだよね、っていう話をしてるんです。
――あとバーの一人芝居のキーはもうひとつあって、それは「位置」だよね。その位置を誰が占めてるのか。カウンターの向こう側に、人生の断片を演じる人が居た後に、その人自体が断片となって退き、そこに現在のリツコさんが来た、っていう事自体も演劇としてできてるというか。
大崎 そうそう。だからリツコさん自身は演じてるつもりないんだけど、見ているほうには演技にしか見えなくて、「これって演技だよなぁ」って思わされたりするんですよね。
――あの詩集のあとがきに入れるってことはよっぽど印象的だったんですね。
大崎 そうですね。あと、あの文章が気に入ってたっていうこともあります。
――ああ、文章自体はすぐに書いてブログに上がっていたやつを入れたと。
大崎 そうですね。でも、神里くんの演劇観て、毎回感想文書くわけじゃないから、印象的だったんでしょうけど。

※大崎さんが観劇した頃に書いたブログ
http://blog.livedoor.jp/silent_momo/archives/2007-12.html

まだうまく表現できないが、このインタビューを通して、僕が考えたことはこんなことだ。
「破壊したらしっぱなし」で「言葉(だけ)で成立している」神里作品は、作中人物に役者がなり切るって物語が語られる形の演劇とはだいぶかけ離れたところにある。物語的に回収される予定のない断片/出来事が降り重なる、人生のひととき/断片のようなものとみたほうが近い。でも、なぜかはわからないがともかく、作品を観るときにはそういう「演劇作品」として理解しようというスイッチが入っている。舞台上で起こる様々な出来事に「回収」を期待している。その矛盾というか摩擦が「わからない」というような印象を残しているのではないか。
既存の作品を演出する場合や、『雪いよいよ降り重なる折なれば也』のように空間と時間の隠れた層をあらわにするような作品の場合、そこの摩擦が緩和されたり、あるいは媒介するなにかがあるために、観ている側が勝手にひとつにまとめあげるのに成功して、受け取りやすくなるのかもしれない。でも、そのとき残るのは、やはり断片の感触のほうだ。
そうすると、神里くんの新作戯曲でツアーもある、という今回のような形での公演が奏功するために僕が思いつくのは2つの方向になる。「伝記」や「ミステリー」のように、なんらか媒介されるような共通了解を枠付けるか、「わかる/わからない」の判断をぶっ飛ばすくらいの「感触」で圧倒するか。あるいはその掛け合わせの合わせ技。
もちろん、ほかにも選択肢は考えられるし、これは現状進んでいる『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』にフィットさせた仮説にすぎない。こうやればうまくいく、みたいな特効策はないけれども、DVDを焼く時の「ファイナライズ」みたいなことに、今回はちょっと注意を払ってみようかしら、と思った。ファイナライズをするのが、演る側なのか、観る側なのか、は現段階ではわからない。が。


(1人目おわり)
※インタビューは2013年5月4日に行った。

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