メモ|ジャーナル

野村政之のメモとジャーナル

観た人の岡崎藝術座 2人目:阪根正行さん(元書店員/「アラザル」同人)[1]

< 前回

阪根正行さんは、以前ジュンク堂新宿店の書店員をされていて、書棚の特集やトークイベントなど精力的に企画をされていた(今は全然違う仕事をされている。批評誌「アラザル」の同人としても活動中)。僕とのつながりは、2009年の「キレなかった14才♥りたーんず」のときと、その年の秋に、ジュンク堂新宿店で演劇と本をからめた企画書棚を開催させてもらった頃に遡る。そのくらいの時期から、こまばアゴラ劇場にも足しげく通ってくださっていて、他の劇場でもよくお会いした。
で、また、阪根さんのブログが個性的というか、演劇という「異文化」との遭遇に向き合いながら綴られる内容がいつも興味ぶかかったのである。とくに「神里くんの作品を南米文学を通して理解することはできないか?」というあたりの猪突猛進ぶりが微笑ましいというか、目を見張るというか、阪根さんがそれを書く時のエネルギーが、気になっていた。
前回の大崎さんとの話…神里くんの作品はテキストで成立してる…みたいなことにまた別角度から光を当ててみるにあたり、阪根さんがいいんじゃないかと思ったのはそのへんからだった。

f:id:nomuramss:20130525202156j:plain
『古いクーラー』(2010.11)  ©富貴塚悠太


▶神里作品を観ると南米文学が読める(笑)

阪根 神里くんの作品の観たのは「りたーんず」(「キレなかった14才♥りたーんず」)『グァラニ― ~時間がいっぱい』が最初で、何作品か観て、だんだんわかってきたところもあるし、そのときそのときで感じ方が違うのもありますね。そのなかで「言葉」を一番感じたのは『古いクーラー』。
『グァラニ―』のときは「ホントわからない」という印象で、杉山圭一さんと高須賀千江子さんの独白のシーンが多いな、という印象はあったんだけど、中身までどうこうという所までは感じられなかった。それが『古いクーラー』の時には、「言葉」というテーマを真正面からやってきたな、という印象で。
――『古いクーラー』がよかった、っていう人結構多いんですよね、実は僕観てないんですけど。
阪根 演劇はなんでもできちゃうというか、いろんな要素を組み合わせて作品をつくりあげることができる、にもかかわらず、『古いクーラー』は、俳優がたくさん出てくるんだけど、基本的に一人ずつ俳優がポンと出てきて、独白というか、そんなレベルじゃないかなり長い話をするんです。テキストもポエティックというか、そのままでは理解できないような内容で、なんというか、話しながら/話していくうちに語呂合わせでどんどん変化していくという感じで。ほんと「テキストに賭けてるな」って感じました。ともかく俳優さんが出てきて、ただ台詞を言うだけ(笑)。「ここまでやっちゃうんだ」と、神里くんはテキストに対する意識が相当強いんだと感じましたね。
――戯曲で読んでもそんな感じでしたか?
阪根 それで、神里くんとその作品について何か書いてみようと思って台本読んでみたんですけど、『古いクーラー』のテキストはうまくいってると思いますね。神里くんは演出のインパクトが強いから、ほとんどの人がテキストの中身にまで意識が届いていない。だからこそ、『古いクーラー』は神里作品のなかでは外せないというか、もう一度じっくり検証したほうがいいかもしれないと思ってます。
ただ、神里くんのなかでも刻々と変化していて、この前の『隣人ジミーの不在』の場合は、チェルフィッチュの山縣太一さんがいたからというのもありますけど、俳優の身体というか、テキスト/語りというよりは、俳優の身体を露呈させるみたいな感じでしたよね。
――そうですね。僕は、『R.U.R. -ロボット』観て、『オセロー』観て、なんというかまあ、めちゃくちゃで、めちゃくちゃだったけど面白くて。そのあと一人芝居があって、そこでその時までの劇団員がぬけちゃって、で『三月の5日間』をやって、それもめちゃくちゃやって、でもそれで評判になって、神里くんがもともと持ってた破壊っぽい感じと岡田さんの言葉と身体のこととかが妙な組み合わせになって、という経緯のなかで、最近はだんだん、昨今のモードにあってきてるというか、わりかしミニマルな身体性みたいなので魅せるみたいなことになってきたな、と、僕のざっくりとした印象はそんな感じですね。
それで本人にも「自分のじゃないテキストでやってみたら?」とか言ってたら、去年『アンティゴネ/寝盗られ宗介』をやるというので、すごく期待していたんだけど、まあ、いい作品ではあるんだけど「俳優の身体で見せてるんだなぁ」「静かだなぁ」とか思っていて、『隣人ジミー』のもそんな感じだったので、去年のF/Tの終わり頃に二人で呑んだ時に「もっとちゃぶ台ひっくり返してもいいんじゃない?っていうかそういうんじゃなかったっけ?」とかいったりして。なんかその日は数年ぶりレベルですごく意気投合して、それで、なんだかだんたんと今回制作手伝うような流れになった、という感じです。
それまでは「神里くんもなんかなんとかなりそうだな」と思ってあんまり触らないでいたんだけど。

阪根 観て納得しちゃうのは、神里くんにとっていいことじゃないのかもしれないですね。初めて『グァラニ―』見たときに「なんじゃこいつ?」っていうのがあって、『リズム三兄妹』みたときも、馬鹿馬鹿しいんだけど「なんじゃ?」と思った。それでいうと、『古いクーラー』とか『隣人ジミー』とかは、「なんじゃ?」感はあるけど、ある意味すごく突き詰めてるというか。鰰『動け!人間!』の「淡水魚」のプログラムで稽古の場面を見ることができたから、演出の付け方を見てたら、すごく的確にパチ、パチっと指示を与えていく。神里くんはトークショーでははぐらかすけど、「何もわかってませーん」っていう人じゃないよな、と。
――結構、神里くんと南米の関わりみたいな感想は何人かみたことあるんですけど、僕、阪根さんがブログで書いてるのがなんか一番印象が強くて、これなんなんだろうなーと思ってるんです。阪根さんはどういうつもりで書いてるんですか?
阪根 神里くんがペルー生まれだっていうのを知っていて、そういう先入観があるからかもしれないけど、でも作品を観てもそういうのは感じて、ブログで南米の文学とかのことを書いたんですよね。
僕はもともと建築をやっていたんだけど、南米で著名な建築家というとブラジルのオスカー・ニーマイヤーとかメキシコのルイス・バラガンとか。確かに色の使い方とか造形感覚に特徴があるんだけど、あまり謎めいた感じはない。南米と言えば、やっぱり文学。ボルヘスとかガルシア=マルケスとか。そういう人を意識した作家って日本にも何人かいるんだけど、ガルシア=マルケスを読んで「面白い」っていってガルシア=マルケスみたいな作品をつくる人と、「自分がつくったものがガルシア=マルケスみたいになってしまう」という人では全然違うと思うんですよ。それは気質の違いとかも含めて。
神里くん自身はどう感じているのか知らないけど、彼が素でやる作品はやっぱり、そういうものになってしまう/なってしまっている、と感じるんですね。南米文学をしっかり読んで受容した日本人の作家が書いた作品を読んでも、やっぱり違うなーって思うし、逆にボルヘスとかガルシア=マルケスを読んでも、やっぱり分かんないなーって思う。どっちもダメなんだけど、そんな時に、神里くんの作品を観るのが一番ダイレクトでいいんじゃないかって。神里作品=南米というわけじゃなくて、これがなにかはやっぱりわからないんだけど、この分からなさを実感してから、ボルヘスとかガルシア=マルケスを読んだら、意外と読めたりする。


「キレなかった14才♥りたーんず」のときの神里くんの自伝的作品『グァラニ― ~時間がいっぱい』では、パラグアイでの少年時代と、日本に住むようになってからの学校生活、あと町田でそれを書いている現在の自分というのが描かれていた。お話としては「カルチャーギャップもの」みたいにくくればくくってしまえそうなストーリーだったが、やっぱりその出方の球筋が全然違うというか、同じく自分の少年時代と現在を描いた柴幸男くんの『少年B』の「ベタとそのズレ」と対比すれば、「そもそも食い違っているが表面的にはベタ」というような感じで、成り立ち方が正反対な感じさえした。
阪根さんのいうように「素でやるものがそうなってしまう」結果として生み出されている作品を、どういう角度から観て捉えるか、そのへんがいつもややこしいというか、ともすれば、自分の価値観を正当にして押し通せてしまいそうな微妙な雑種感があるんだよな、と思う。

>

> 岡崎藝術座のWebサイト