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メモ|ジャーナル

野村政之のメモとジャーナル

観た人の岡崎藝術座 2人目:阪根正行さん(元書店員/「アラザル」同人)[2]

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青年団若手自主企画『昏睡』(作:永山智行[こふく劇場]/演出:神里雄大 2009.8)©河村竜也

▶場所性とアイデンティティ

――振り返ってみると僕は神里くんの作品にそれなりに関わっていて、『三月の5日間』、「りたーんず」、『昏睡』、鰰『動け!人間!』、『レッドと黒の膨張する半球体』とかあるんですけど。
一番ガッツリ関わってるのが『昏睡』で、そのときには「この台本どうする?」みたいなところから、付き合ったんですね。『昏睡』の台本は、ふつうによむと、ヨーロッパの演劇から生まれたテキストの雰囲気というか、そういう言葉でつくられたテキストだと僕は読めて、色でいったら青白い感じだったんです。それがなんか神里くんは、「このテキストは、なんかあんまり土っぽくない、大地みたいな感じじゃないから、大地みたいにしたい」と言って、実際、演出でもヤシの木がスーツケースの中からはえてきたりとか、わりかし南の島みたいな感じのイメージだった。赤黄色いというか、暖かい、冷たくない作品になったな、という印象の作品になっていて、これはたとえば『グァラニ―』もそうだったし、石とかコンクリじゃなくて土みたいな感じとか、なんだろう、温度がある感じとか、そのへんがちょっと特徴的だなぁ、みたいなのはありました。
神里くんと南米、っていったときに僕のなかで思いつくのは、そのことと、変なふうに言葉が接ぎ合わされるというか、一緒になることで、この両方があるのが南米かな、と。
阪根 僕のなかにも『昏睡』はすごく強い印象を刻んでますよ。あのときの山内さんと兵藤さんはすごかった。なんせすごかった(笑)。この前のサンプルの『地下室』の山内さんも凄かったけど、あの『昏睡』のときの山内さんはその比じゃない(笑)。
青年団の俳優のレベルの高さはほかの作品を見ててもわかるんだけども、オリザさんの作品って俳優のポテンシャルをフラットにコントロールしてるような感覚があって、東京デスロックの公演を観た時に、「え、この人青年団の人じゃないの?」「こんなことできちゃうの?」みたいなそういう驚きがやっぱりあった。
『昏睡』のときも、トークショー聞いたんですけど、若造の神里くんが、怖いもの知らずっていうか、「だって山内さん全然台詞覚えないんだもん。僕のほうがよく覚えてるよ」とか平気で山内さんの前で言ってて、
――(爆笑)
阪根 オリザさんが山内さんに演出をつけてダメ出しするんだったらわかるんだけども「それだけ遠慮しないからこれだけのことができるんだな」というか。その波長の引っぱり出し方というのが凄いなと思ったんですね。
――確かに、その波長の引っぱり出し方が神里くんの何モノかだと思いますね。さっき『哲学と自然』(中沢新一・國分功一郎著)を読んでいて「直観的」という言葉が出てきて、そういうことなのかなと思ったんですね。なんかついつい解釈から入っちゃう感じとか、意味づけて整理してしまう感じがあるんだけれども、神里くんはそういう感じでもないな、というか。
俳優に直に行く、というか。例えば山内さんていう俳優がいたら、その人の振れ幅があるわけですよね。その振れ幅の軸が、軸が多い振幅、エネルギーがどれだけ出るかとか、体が動くかとか、声がどうかとか、そういうことの幅をわりかし最大限に使って、引き出してくるみたいなことはある。
『昏睡』は凄いエネルギッシュだったし、あったよな。とか。
阪根 今回の公演でいえば、柿喰う客の大村わたるさんはすごく楽しみですね。観ててうまいのはわかるし、中屋敷くんの演出にも応えていると思う。でもそれだけじゃないものを持ってる人だと思うし、それを神里くんが引き出したときに、大村さんがどう応えるか、あるいは裏切るか、というのはすっごく楽しみ。
ブログにも書いたんだけど、『ヘアカットさん』の時、僕が観に行った理由の何割かは内田慈さんと坊園初菜さんが出てたからなんですよ。前田司郎さんの作品で坊園さんがいい演技をするってのがあったのと、内田さんはいろんな劇作家の作品に出演していて、それで神里くんの作品に出るっていうので行ってみたら、ちょうどアフタートークでふたりに質問できたんですよ。
神里くんの作品はどう考えてもふつうじゃないというか「なにかしら俳優側としてもモードを切り替えないといけないのかな」と思って、「神里くんの作品って訳わかんないですけど、俳優としてはちゃんとわかるんですか?」みたいなことを聞いたら、それに対して「むしろ「わからない」といわれることがわからない」って言われてびっくりしたんです。「神里くんの演出の指導は的確だったから、演技していて、これはどうしたらいいかわからないということは無かった」と。
――ね、それが実感なんでしょうね。
阪根 僕の想像では前田さんの作品と神里くんの作品を演じるんだったら迷うだろうなーと思うんだけど、全然そんなことないですよ、ってことだったので(笑)
――意外とね。なんなんだろうなぁ。だけど出来上がってるものは全然わけわかんないものとして見えるんですよね。
阪根 あと『ヘアカットさん』は岸田國士戯曲賞の最終候補にノミネートされた作品で、その年に柴くんが『わが星』でとったじゃないですか。
――とりましたね。
阪根 同い年だということもあって、当然ライバル心もあるんだろうけど、そのときに神里くんは怒ってたというか、「なんでわかんないんだよ」みたいなことを言ってるのを僕は聞いてたんです。
――そうなんですね。僕は『わが星』側でかつ同じ落選作(松井周『あの人の世界』)の側でもあってそれはそれで複雑だったので、あんまり知らなかったです(笑)。
阪根 観てるときは「『ヘアカットさん』っていってるのにヘアカットさんなかなか出て来ねえな」みたいな感じだったけど、出てくる人の名前が「大崎」とか「目黒」とか地名で、テキストのレベルでいえば神里くんはそれを全部意味づけているというか、厳密に区別して書いていたんだなと。ただ観てるだけだと全然わからないけど、けっこう奥深い作品だったんですね。
だから神里くんの中で、『ヘアカットさん』は、単に演出が変わってるとかじゃなくて、テキストをちゃんと読めば、コアなテーマが出てくるものを書き上げた、っていう自信があって、ノミネートされたから「それなりに読んでくれるだろう」と思ってたのが、誰もそう読んでくれなかった、そのことを怒ってたんじゃないかと思ったんです。
――なるほど。僕も全然わかってなかったですけど「今まで観た神里作品のなかで『ヘアカットさん』の最初の30分が1番か2番」が持論です(笑)。
阪根 それが『隣人ジミー』とかになってくると、要するに「そこにもともと居る人」と「そこじゃないところから来た人」が混ざった時に起こる問題、みたいなことになっている。南米とかペルーのことも絡むんだけど、「場所性」とか「アイデンティティ」のことが問題意識としてはっきりしてきたと思いますね。
――それはそうだと思いますね。
阪根 神里くん自身の経験で、「出身どこ?」とかってよく言われてしまうって。ペルーとか言うといちいち説明しなきゃいけなくなって、「ハーフなの?」みたいな質問も悪意なくされるし、もううんざりしたと。
そういえば『グァラニ―』のときにもそういう話はやっぱしてたなと。そのときは町田の話でしたけど。町田って、東京都なんだけど、例えば小田急に乗って行ったら、多摩川わたってまず川崎になって一回神奈川になって、町田になったらまた東京になって、そこからまた神奈川になる。じゃあ「町田って東京なの神奈川なの?」みたいなことになる。境界の問題ですね。町田くらいだったらべつに大した問題になることはないんだけど、境界のあいまいさみたいなのを、ずっと一貫して神里くんは書いてるんだと思うんですよね。
――なるほど。それは面白い言い方ですね。確かに、場所、ないしは場所の名前みたいなこと神里くんの作品を読み解く上では重要なファクターである感じはします。これに関してはいくつかエピソードはあるんですけど、『三月の5日間』をやるときに、もともと今、日暮里にある「d-倉庫」がオープンするから、安くなってるとかで、そこで『三月の5日間』をやるのはとてもいいんじゃないか、といってたんです。
神里くんは「自分は川崎で、この戯曲(『三月の5日間』)は横浜~六本木ラインみたいな空気の世界だ」と。それで、横浜~渋谷~六本木というのは西からものがやってくるラインで、それに対して日暮里、山手線の東北ゾーンは上野に近くて、東北から来るものを受け止める場所で、そういう人たちが住んでいる。そういうようなことをやろうとしていたんです。やろうと思ってたら、d-倉庫のオープンが延びて出来なくなり、それで新百合ヶ丘(川崎市アートセンター)と上野(上野広小路亭)でやった。
阪根 ああ。
――その神里くんが、横浜の急な坂スタジオの若手育成プログラムで、「横浜のアーティスト」みたいなのになったというのは、だから僕個人としてはものすごく意外で、その頃すごく横浜とか渋谷とか毛嫌いしてたから「おい、どうしたんだ!?」みたいなのは僕はあったんです(笑)。
阪根 (笑)

『三月の5日間』の公演のときは、神里くんから「なにやればいいすかね?なんか面白い本ないですか」みたいに聞かれたので、当時まだ誰も他の人が演出していなかった『三月の5日間』を薦めて、結局やることになったので、そのままの流れで制作面のことを少し手伝った。公演の準備中にちょうど僕が『新・都市論 TOKYO』(隈研吾・清野由美)を読んでいたので薦めたら、神里くんがそこに引用されていた『東京育ちの東京論』(伊藤滋)に興味をもって、上で言っている「西からものがやってくるライン」「東北から来るものを受け止める場所」とかはその本に書かれていることによる。
このときから僕は「神里くんはやけに場所にこだわりがあるな」と思っていたが、そのことと、『グァラニ―』に端を発し最近の神里くんの作品に顕著に見られる「アイデンティティ」「ナショナリティ」のことがリニアに繋がるのだ、というのはこの阪根さんの話で初めて自覚したことだった。この切り口は今後の作品においてもよく確かめたほうがいいのかもしれないと思った。

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