メモ|ジャーナル

野村政之のメモとジャーナル

観た人の岡崎藝術座 2人目:阪根正行さん(元書店員/「アラザル」同人)[3]

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『隣人ジミーの不在』(2012)©富貴塚悠太

▶同一視と異端視の暴力
――ちょっと話が変わってきますけど『レッドと黒の膨張する半球体』や『隣人ジミーの不在』に関して言うと、やっぱりその、すごく「ナショナリティ」みたいなことを問題にしている感じはします。『レッドと黒』のときは要は、「移民」と「混血」ということがテーマとしてあって、それは神里くん自身が、DNA的に言ったら日本人の子供でしかないんだけれども、文化的に言ったら原風景がパラグアイで、そういう人生を送ってきた人が川崎の住民となり、東京と神奈川の雰囲気の中で自意識を形成してきた。その神里くんという人のアイデンティティの中ではある種の"混血"が起こってるというようなことがあって、それに対して、「『日本人』って言ったときの純血っぽさ」みたいなことが「当たり前でいいのか?当たり前じゃないよね?」ていう提示という意識が何かあったと思うし、その意識がまたちょっと違った形で『隣人ジミー』のときに、沖縄とか韓国とか、そういうことを取り上げることにつながっているようなことはあるんじゃないかなと。
阪根 だから『隣人ジミー』のときは、韓国にステイして「リハーサルの一部をソウルでやった」とか。
――らしいですね。
阪根 神里くんの中ではまだ韓国は触れたばかりで作品の中に入ってくるっていう段階じゃないかもしれないけど、ひとつ面白いのは、平田オリザさんも学生時代に韓国に留学していて、韓国の作品もつくってたりする。それから、東京デスロックの多田さんはこの数年毎年韓国に行って、韓国というのを受容した作品をつくっている。平田さんは社会とか政治とか文化の違いに焦点を当てていて、多田さんは純粋に韓国に触れて感じるもの、韓国の人から感じるポテンシャルを如何に作品に結実するか、みたいな感じがあるんだけど。
神里くんはまた違って、そっと触れて、触れた自分が変わってくるというか。今まで、南米だペルーだと言われていて、そっちとの行き来みたいなのはある程度あったけども、意外と隣国、韓国も台湾も行ったことなかったよ、行ってみてたら飛行機で1時間半とかそんなもんで行けんのかよ、って、その距離感っていうのが、彼の中で日本と南米とかいうそのレンジでもないところの異質性みたいな感じになってきている。問題意識としてはつながってるのかもしれないけど、作品としてはまた違う方向に行ってる感じもする。

神里くんは去年から今までに、ベルギー、ドイツ、台湾、韓国、中国を訪れている。このなかで中国は演劇の仕事とかではなく、ただ自分で思い立って旅行したようだ。実のところ僕がわかったようなことは語ることができないけれど、という前置きでいうと、やはり台湾、韓国の「近さ」と「違い」に触れて、自力で中国に旅に出たというのは、なにかあったんだろうなと思う。
わかったようなことはいえないが、つまり飛行機で2,3時間もあれば行けるところに、おんなじような顔立ちをした異質な人がいる、という実感は、神里くん自身がもっているだろう「純血な日本」に対する異和感にとって、欧米との違いの実感よりも「比較可能な親密さ」があるのではないかと思われるから。

阪根 あと、ねじれてるっていうか複雑な場所性があって。神里くんがペルーだからハーフで顔が濃いのみたいなこと言われて(※註)、「違うんだよオヤジの家系が沖縄出身なんだよ」というときに、またペルーとは違った文脈での異質性がある。
――そうなんですよね。
阪根 僕もあんまり沖縄の問題は意識的じゃないんだけど、本屋に勤めていたときに、沖縄で育った人から聞いたんだけど、沖縄の人って、「本土」と「沖縄」って呼ぶらしいんですね。その、本州を「本土」って呼ぶ感覚ってやっぱないじゃないですか。
――ないですね。
阪根 だから沖縄の人から日本を見る目と、本州で育った人が沖縄を見る目ていうのはあきらかに違う。
――僕もそこはすごく大事だと思います。神里くんの作品が面白いと思う人がけっこういて、F/Tでやったりとか台湾に行ったりという場はできてるんだけど、まったく全然理解されている/できているとはいえない感じがする、という事態がなんなのか考えることにも繋がると思うんですが。さっきの「ペルー出身だからハーフで色黒なんだ」みたいな、短絡的な、それを言う人が「ペルー」というものに対して抱いてるイメージと神里くんいう人を簡単につなげて見ちゃう見方の暴力というか。本州の側から沖縄をみた時には無前提に「沖縄は日本の一部」だと思って「同じだ」っていう目線で見る一方で、沖縄の側から本州をみたら「それは異質なものだ、本土だ」って分けている、その食い違いみたいなこと。神里くん自身は、東京とか川崎で育ちでもあるから、東京的なデリカシー…チラシの言葉でいえば「神経質」っていう部分…も持っているから、東京に来た人とかのなかで「同じだ」っていう前提になんとなく立っちゃうんだけど、神里くんの側からみたら「同じだ」って見られることの被害というのを感じてるのかなと思います。かといって神里くんが「異質だ」と見なしてほしいと思っているわけでもないだろうから、またややこしい。こういうズレは、僕自身が神里くんに対するときもあって、それで僕が神里くんのことをつかめないんじゃないかな、というふうに思います。
阪根 以前、僕が学生のときはハーフの人とかそんなに身近にいなかったと思うんだけど、最近は、会社行く途中にすれ違う中学生のなかにも黒人の子がいて、何ていうんだろう、日本の中学校の制服着てて、僕らがイメージしてる黒人の雰囲気とは全然違って「日本のふつうの中学生」っていうナイーブな雰囲気しかしないような黒人の中学生が居たりする。そういうのを感じて「今はクラスに一人や二人はふつうにいるんだろうな」って思うときに「だろうな」てなってしまうのが、やっぱ「わからない」ということだよな、と。
――僕はなんか最近、なんでかよくはわからないけど、以前よりもアール・ブリュットとかアウトサイダー・アートとかいわれるものに関心がわいてきていて、その自分の変化・反応について思うのは、色とか画面構成とかかたちとか、自分だったらそもそも絶対にこういうふうな発想は生まれてこない、と感じるようなことを、見せてくれる可能性があるカテゴリーだということですよね。つまり、世の中に対して、自分とは全然違う見え方、全然違う表現手段でできてくる、という部分で興味が高まってるのかなと。
ちょっと乱暴だけど、言ってしまえば僕が神里くんに対して感じてることもそういうことに近いと思う。はっきりとつかめてるわけではなくて、予感や予知みたいな感じで直観で捉えてる神里くんの魅力ということなんですが。
昨今神里くんもちょいちょい絵を書いたりとかしてて、『昏睡』のときにもいくつか絵を描いてくれて、それをチラシに使ったんです。そしたらなんか、フォトショップで描かれた絵で「おはぎの飛行船」とかが飛んでるわけです(笑)。「なんだこれ?!」っていう感じなんだけど。そのおはぎの飛行船みたいなのとか、神里くんの色使いとか、僕にとってわからないこと、自分ではやらないことが、でも神里くんの感覚としてはスッと出てきてるってことが、今はとても興味深いし、僕にとって面白いと思う作品を創ってくれる可能性がある人だなっていう感じがする。

f:id:nomuramss:20130531235956j:plain(『昏睡』のときに神里雄大が描いた絵)

世の中に対して今自分がしているのとは全然違う見方をしたいという欲がなんだか高まっていて、基本自分の発想じゃあんまり満足じゃなくて、人の発想や人からの刺激をうけて出てきたような、思いもよらないアイディアとか、想定外の場所に連れて行かれるみたいなことを待望している感じがある。このインタビューだって、自分独りで考えれば時間もかからないだろうに、わざわざやろうというモチベーションが生まれるのは、たぶんそのへんにある。とりあえず神里くんの作品を観ていて、自分とはできるだけ違うふうに観ていたり、違うふうに演劇に触れていたりしてる人と話したいと思ったのだ。直観で。

阪根 最近ちょっと僕の中で「日本人で誰がノーベル文学賞とる?」みたいな興味があって、「村上春樹がとるかとらないか」というのが一般的なんですけど、多和田葉子がとっちゃうんじゃないかな、とか考えてる。多和田さんがやってることというのは、どうなるかわからないところがある。日本から飛び出して、母国語の外に出てドイツ語という言葉で文学にアプローチするということをやってて、そこで生まれてくるものがなんなんだろう? というか。ある意味神里くんと近いかもしれないけど、そこで何ができてくるかというのが確定しないところがあって、でもそこで作品をつくってできたものによって初めて生まれてくるものは絶対あるし、それが出てきた時にノーベル賞を与えましょうという話になるかもしれない、と。
――そのライン面白いですね。神里くんと多和田葉子さん
阪根 去年『ファンファーレ』(脚本・演出:柴幸男[ままごと]/音楽・演出:三浦康嗣[□□□]/振付・演出:白神ももこ[モモンガ・コンプレックス])を観た時に、コンテクストの違う俳優・出演者が出てきてて、おそらく彼らのコンテクストのままでいたら出てこなかったものがうまく引き出されていてよかったなーって。ただ、彼らのポテンシャルをいかに引き出すかという難しい問題はあるにせよ、めざすべきところがあるという点では、神里くんほど複雑じゃない。多和田さんとか神里くんの表現は、異質なもののなかに飛び込んで行くというか、本人のほうがダメになっちゃうかもしれないようなことだと思うので。
――より切実ですよね。言葉を喪うとかそういうレベルの可能性の実験かもしれない。
阪根 そうですね。一番こわいのはそういうのを突き詰めていくと、もうそこに住めなくなっちゃうかもしれないというか、倫理的な問題もあるし、自分でつくってる段階で辛くなっちゃうという危険性がある。
――そのストレンジャーぶりが、全然ストレンジャーっぽく見えてないというのが神里くんの特徴かもしれないですね…。神里くんの言葉を演じるのがいまのところ日本人の、神里くんのような背景を持っていない人がやるということが多いなかで、そのことによってこっちの観てる側が「自分と同じだ」っていう幻想をいだきやすくなっているというか、それで逆にわからなくなっちゃうみたいな。同じだと思ってたら、あれ、違う、みたいな。違うと思われたときに排除みたいな力が働く可能性がある。
阪根 近いうちに神里くんも多田さんみたいに韓国の俳優とやるかもしれない。そうしたら意外とスッと行くかもしれないし、行かないかもしれない。
――どっちなのか、日本人でやってる限りはわからないかもしれないですね。うまく引き出せてる、ていう事実も一方でありつつ。
阪根 意外と伝わるんだ、という話なのか、神里くんの中で意外とセーブしてる、という話なのか。
――本人はたぶん自分がストレンジャーだとは思ってないんじゃないかな。
阪根 自分では思ってないんだけど、そういうことをやっぱり言われちゃう。それに対して、とやかく言わずにとにかく「見ろ!感じろ!」みたいな(笑)。
――本人に言わせれば「それ現状でももうやってますよ」ていうだけの話かもしれないですけどね。

ここでしている「アイデンティティ」「ナショナリティ」みたいな話は、神里くんという個人を理解しようとすることにとって、取り扱い注意なことでもある。神里くんでなくてもこういうような背景をもった人は居るし、もっと希少な組み合わせで何らかの混血(クレオール)である人だっているし、それだけで個人を語ることはできない。
それでも一旦こういう話をしてみることは大事だと思った。
沖縄からみた本州の話にあるように、異質という認識が非対称に現れることがあるということ。
そして神里くんのつかみにくさを考えるときに加えて頭においておかなければいけないのは、そこに異質さだけじゃなくて同質さも同居してるということ。そのことによって「微差のナルシシズム」(他者との違いが小さければ小さいほど、その違いを肯定できない)みたいなことが発動して、簡単に否定しにかかってしまう…矯正あるいは強制が生じる…ということ。
僕がずっと自分自身の中で警戒しているのはこれだった。これに気づけたというか言葉を当てられたのは非常によかった。


※註)未来回路4.0/神里雄大インタビュー「揺らぎに留まること 〜言葉を演出する身体〜」
(聞き手 中川康雄)より

— もともと出身地がペルーなんですね。
神里 そうですね。けれども生まれがそうだというだけで、その場所の記憶は正直ないんですけどね。僕は川崎育ちなんですけど、川崎出身というよりペルー出身と言ったほうが目立つということで。婆ちゃんとか父親はペルーなんですけど、僕自身が育ったとかではないです。小学校の5、6年生のときに南米には住んでいた時期はあるんですが、パラグアイに。基本的には日本の教育を受けて育っています。父親が日系人なんですね。父親の家系が日系のペルー人なので、それなりに小さい頃からそういう南米のものだとか情報だとかに触れる機会は多かったです。
 ただ、なんて言うんですかね。その辺のことを説明するのが面倒くさいというか、複雑で。毎回、こういう話になるんですけど、みんな一番気にするのが「ハーフなのかどうか」とか。「血は日本人なのか」みたいなことを悪意なく聞いてくるんですね。結構そのことにうんざりもしています。最近は諦めが付きましたけど。うちは父親の家系が沖縄出身なんですよ。そういう意味でちょっと彫が深いというか、顔もそういう感じなんですけれど、それでペルー出身だというようなことを言うと、「ああ、だから顔が濃いのね」、みたいな。その説明をするのが結構面倒くさい。最近はよくこういうことを言う機会があって、しゃべりながら整理している感じがするんですけど。他の人がたとえば、横浜出身と言えば済むのが、何かやたら長いなっていうことはあります。それと母親の家系は札幌なのでむちゃくちゃですね。

(2人目おわり)

> 岡崎藝術座のWebサイト

※インタビューは2013年5月6日に行った。