メモ|ジャーナル

野村政之のメモとジャーナル

2017/2/9-11

2017.2.9

アゴラで庭劇団ペニノ『ダークマスター』。この作品はペニノの常連の人たちによるものではなく、大阪のオーバルシアター、中立公平さんのプロデュースによるもの。関西圏から俳優をオーディションして、大阪で創作された再演版だ。しかしそんなことを多くの人は気にしないでペニノの作品として観るほどに、しっかりアンコがつまっている。そして、タニノさんの作品は気持ちが良い。堂々としている。舞台がそこにあり、俳優がそこにいる。やることだけをやっている。いろいろと「?」なこともあるのだけど、「演劇」の存在感と密度があるので、「?」もどうでもいいように思ってしまう。もうすっかりタニノさんの演劇を信頼した。

 

2017.2.10

明日からTPAMが始まるとなにもできなくなるので、ひたすらにデスクワークをしていた。最近は東京にいるとすっかりデニーズで仕事をするようになった。理由はWifiがあるからだ。この日は、新丸子のデニーズと、自由が丘の上島珈琲とデニーズで仕事をした。

 

2017.2.11

ワタリウム美術館でコンタクト・ゴンゾの展覧会を観て、千駄ヶ谷駅まで、建設中の新国立競技場のエリアを通りつつ歩いた。というか、ちょっと横道にそれて将棋会館にも寄った。将棋の駒の形のチョコがあったので、フランクフルトの将棋サークルの人たちに買った。2階にも上がってみた。小学5,6年の時、寒中休み(1月末)に父につれてきてもらったのがここだった。それ以来将棋会館には来たことあるけれど、2階にあがったことはなかったと思う。懐かしさが溢れ出た。子どもたちが沢山いて、引率してきたお母さんたちも沢山いた。ここに居た時自分も子供だったなと思った。

その後浅草橋に行ってタニノクロウ展。1室だけで、これまでの作品の特製の道具類が展示されていたり、タニノさんの画があったり、チラシがあったり、『アンダーグラウンド』の映像が流れていたりしたが、一番みどころだったのは、タニノさんのステートメントだった。冒頭には

私は演劇を通して何をしたいのか?
私は演劇を通して、演劇をしたい。

末尾には

これからも今までのように
途方もなく試行される数々とその成果が
演劇の枠を一つに漏れずに還元されることを
心から望んでいます

と書いてあった。

ここに書かなかった部分が、一番心を撃ったのだが、それは書かないでおく。

KAATに移動して、アトリウムで行われた小野寺修二さんとベトナムのコラボレーションを観る。WIP的な短いパフォーマンス。
その後、BankART NYKに行きTPAMのシンポジウム「批評的舞台芸術舞台芸術批評について — ポピュリズムの時代を迎えて」を聞いた。

桜井さんと内野さん(司会:武藤さん)のセッションについては、内野さんの新刊を軸にカリッとした議論を期待していたが、そうはならなかった。内野さんの「一旦、制度を構築しないと、カウンターもあり得ない」という筋には全く同意するが、一方で、武藤さんの「劇場における舞台芸術に対する疑い〜ダンスはいたるところにある〜が重要」という主張も、以前から大事だと思っている。この2つを対極においてガッチリ議論してもらっても面白かっただろうと思う。ただ、桜井さんの既定路線というか、ボヤキ/「建設」的議論へのためらいがそれを阻んだ。桜井さんという個人のことに注目すれば、理解できるのだけど、せっかくの場の中で、もったいなかった。藤原さんがいろいろ質問とかしていたが、ならば、時に粗い議論をしがちな藤原さんを中に入れたほうが、活性化したかもしれない。藤原さんがことわったのかもしれないが。

というか、そういう日本人のやりとりよりも、オンケンセンの話のほうがストレートに受け取れた。検閲や自己規制が広がっていくなかで、公的機関の中には「問題・葛藤・対立は〈存在〉せず」、政治的・実験的・挑発的なパフォーマンスは「地下に不可視化されていく〜ネット上からさえも〜」という話だ。既にそのような兆候がある。兆候があること自体を問題にしなければならない。これは、批評という以上に制作の話なので、批評的な制作者がパネリストでいたらよかったかもしれない。だけど、そうなったときにカウンターになれるのが、結局市村さんや高萩さんなのかな、とか思えてしまう状況。早く脱していかないと。世代交代。ひとごとだとは思っていない。

その後、長者町アートプラネットで贅沢貧乏を観た。初見。何の感想もない。僕に関わることなく時間が過ぎ去っていった。またしばらく時間を置いて、機会があれば観てみようと思う。