メモ|ジャーナル

野村政之のメモとジャーナル

2016/12/27〜2017/1/7

2016.12.27

16:15羽田着でフランクフルトから帰国。帰国とは言うものの、帰ってきた、という感慨などは特になく、旅をしている感覚が続く。いつまで続く?(書いている今もまだ続いている)

バスで渋谷。アゴラ事務所にスーツケース2台を置かせてもらい、中目黒で会食。アーツカウンシル東京調査員で一緒だった面々。それぞれフィールドが違う人達からいろいろ情報を得る。長野県がアーツカウンシルをつくるための調査を行っているらしい。

道玄坂のカプセルで一泊。日本で最初にしたかったこと、大きい風呂に入ること。ここの風呂はわりと好き。

 

2016.12.28

国際交流基金アジアセンターへ。何人の方に「帰ってきたの」と笑顔で迎えていただく。1時間半ほど打合せ。

北千住で岸本さん、至さん、くま、村本さんと会う。中目黒で蓮沼くんと会い、そこにいた人たちと祐天寺のばんに。東京の飲み屋って感じでとてもいい店。新宿三丁目で制作者読書会の面々と呑み。この一年間にそれぞれに起きていたことを聞く。なかなかディープだった。

 

2016.12.29

平田家に慶子さんの弔問で伺うも、呼び鈴の故障で叶わず。新宿で三好さん、松井さん、新田さんとランチをして、更に新田さんと半分打合せのようなこと。2017年は台湾に通うつもり。再度平田家へいき、慶子さんに手を合わせ、香奈さんと短くおしゃべり。

アゴラからスーツケース2台を引きずって、17:00のあずさで帰省。父が軽トラで駅まで迎えに行きてくれる。

 

2016.12.30

正月の準備。松飾りづくり。

 

2016.12.31

正月の準備。松飾りと料理。

 

2017.1.1

新年。いつもの新年。「手伝う」から「リードする」に年々移行している。

 

2017.1.2

いつもの1月2日。姉夫婦が朝雑煮を食べに来て、おしゃべりして、箱根駅伝みたり、高校サッカー観たりした。

 

2017.1.3

8:09のあずさで東京。ON-PAM理事会。終わった後丸岡さん、橋本さん、藤原くんと少しだけ呑む。それぞれ、それぞれ。

 

2017.1.4

カフェを転々としながら仕事。夜『淵に立つ』を観た。

 

2017.1.5

夜、元アサヒ・アートスクエア運営委員で新年会。昨年4月の運営委員会終了時点で僕が日本にいなかったので。宮浦さんがナマのぼたん海老を札幌から直送で持ってきてくれこれが感動的に美味しかった。新川さんの家からの隅田川の眺望が素晴らしかった。

 

2017.1.6

11:45成田ー15:55台北桃園空港。クーリンチェ小劇場。王永宏氏と2年ぶりの再会。劇場を見せてもらうとともに、いろいろと環境について話す。クーリンチェ小劇場は市の26番目の文化施設だが、事業費はなく、貸館7割自主3割、貸館収入でスタッフも雇用している。植民地時代に日本が設置した交番の建物を劇場化し、創立者が市と交渉して貸し料無しとなっている。2〜3年に1度、これまでの業績と次の2,3年の計画を提案して運営の権利を得ている。再来年から改修に入るが、その間収入がなくなることについて現状ではなにも対策の提案はない。

国の発信(”プロパガンダ”)のための文化にはお金が出ているがこうした営みにはお金が出ない。そのあたりは日本も同じ、アジアに共通と言えるのかもしれない。国策としての公共芸術、相対的に自由な商業芸術、サポートがないコンテンポラリー。

新田さんの家に4泊泊めてもらう。

 

2017.1.7

華山文化創区、北山文化創区、国父紀念館、誠品書店、台北ビエンナーレ台北市立美術館)西門、龍山寺あたりを回る。

華山ではチームラボの展示があったので観た。わりとがっちりコンセプトが書いてあって、日本の絵画技法とインタラクティブメディアアートに関することが説明されたいた。それ自体はふむふむと読んだ。ただ、芸術的な実現がこれでよいのかというような感想を持つ。子供連れや若いカップルなどで多いに賑わっていた。

今年台湾に通おうと思っている。近くの外国のシーンを継続的にウォッチする中で、アジアの関係について考えていきたいというのが第一の目的。なにかいいアイディアを思いつけばと思っている。とりあえず、日本のシーンが外からみると閉じていて、簡単に行き来できる範囲のアジアの人たちにとって、アクセスしづらいものになっているということが現在見えている一つの課題である。そのあたりは前日王さんともよく話した。日本が閉じているのは勝手だが、アジアは華人達を中心にして勝手につながっていく。気がついたら誰からも見向きもされないエリアになっているかもしれない。数年後。

そもそも、日本の舞台芸術は、日本のことにしか関心をもっていないかのように思われる。あるいは欧米のこと。アジアの人たちから見て、日本はヨーロッパになりたがっているように見える、という声もある。

一方で台湾にいると思うのは、戦前の植民地時代、戦後を通じて、単にひどいことをした、資本的に侵略した、というだけでなく、台湾の人たちや社会に何らかの形で貢献もしてきたということが感じられることである。日本人が幸福を求めてきた姿は、全部ではないにしろ、アジアの人たちの見本にもなっている。もちろん、近代以降の日本人にも、その意識はあったはず。一方で我々・・というかJapan as No.1 バブル以降の日本の認識は、日本に閉じている。日本=世界。日本の社会の中にいると、日本の社会のことしか自分にとって影響がないかのように勘違いをしがちである。そうして勝手に日本の中で自分を卑下して、日本の中の弱者に自分がなって、誰か他の人(や国)のせいにする、、という精神的傾向がないともいえない。そのようなことに対して、かつて、そして今頑張ってきた/いる日本人たちの頑張りに襟を正して、日本人との比較で卑下しているヒマがあったら、自分の位置を獲得すべく頑張るようなことでありたいものだと思う。そういうことに目をさますためにも、台湾というのは勉強になるし、自覚を促される場所であるように思う。

そして、日本に住んでいる人たちにその感覚を広く共有してもらうには、日本の中に、国際的な場所をつくることだろうと思う。特に近くの外国の人たちと触れ合う機会、一緒にものを考え作業をする機会を多くつくること。もはや日本には、自分を卑下している余裕はないし、もっと恵まれない環境でも笑顔で前向きにやっている人達がいる。その「現物」と出逢い、日本に住む人が自分の地図を更新するような機会を増やす。日本に住んでいる人の自覚がターゲットになる。

これには、海外に売り込む、という振る舞いばかりが先行して、対等に交換するという感覚が弱いことにつねづね疑問を持っているということももちろんある。自分たちの場所を本当の意味で良くしていこうというつもりで、海外の人と一緒にやっていくのでなければ、なにも残っていかない。そのアイディアを探るためには、日常的に、といえる次元で、外国のシーンと付き合うことが必要だろうと考えている。