メモ|ジャーナル

野村政之のメモとジャーナル

観た人の岡崎藝術座 1人目:大崎清夏さん(詩人)[2]

前回

f:id:nomuramss:20120418181645j:plainアンティゴネ/寝盗られ宗介』(2012) ©富貴塚悠太

▶テキストについて
大崎 そういえば大学の頃、校内で偶然会ったりすると、ちょろちょろって書いた文章を神里くんが出してきて、読ませてくれたりしてました。私が「ここはこうだね」とか感想いったりして、神里くんはそれを聞いて、そそくさとカバンに戻す、みたいなことがよくありました(笑)。みんなに見せてたのかなぁ?
――(笑)それは小説ですか。
大崎 詩もあったし、短編小説みたいなのもあったし、いろいろ。もともと神里くんと出逢ったのが大学の小説の基礎演習クラスで、自分がみんなに読んで貰いたい小説を1冊選んで、それについて文章を書くような時間だったんですね。神里くんはバロウズの『裸のランチ』を選んできたんだけど全然みんな読んでくれなかった(笑)。あんまり本屋に置いてなくて、みんな見つけられなかっただけだと思うんですけど。
――それで「文章表現つながり」みたいなことになったんですね。
大崎 そうですね。それで学校で遇うと文章を見せ合ったりしてたと思います。でもその後神里くんと授業が被ったことはほとんどなくて。1年生の時に神里くんの演劇を見始めてなんとなくその習慣が続いてたから、見に行けば会う、会えば喋る、という感じでした。文章を見せてくるのも、たまたま会ったとき。たぶん今は友達だと思ってくれてると思うんですけど(笑)、卒業するくらいまではそんなに友達っていう感じじゃなかったですね。
――その時の感じは、やっぱ変な人だったんですかね?
大崎 変な人でしたね。
――どこに神里くんの核というかアイデンティティがあるのかというか、「こういう人だ」というのが実のところわからない感じが、神里くんの面白いところだと思うんですけど。
大崎 そのクラスの人たちで行ったカラオケで、みんな寝ちゃって4時頃になったときに、爆音で『トレイン・トレイン』を熱唱しだして、その時に私は「今後あんまり個人的には深く関わらないようにしよう。でも演劇は面白いから観に行こう」と思ってたんですよね(笑)。
――大崎さんのなかで、その神里くんという人と神里くんの演劇はどういうふうにつながってたんですか?実は、こうやって、「観客」へのインタビューのシリーズをやろうと思った理由はそこでもあるというか。僕もあんまりわからないので、他の人の話を聞いてみよう、ていうか。
大崎 作品を見たり読んだりすると、いろんなことが気になっていろいろ聞いてみるんだけど、こっちが望んだ回答はしてくれない人だというのがだんだんわかってきて。なので、「ここをこじ開けたら向こう側にこの人の何かが潜んでるだろう」みたいなことをいつからか諦めてる感じが私はあって、「いっか、それでも」(笑)ってところで付き合ってて。
だから演劇でどんなことを見せられても、私に神里くんの何かとして見えてるものがないから、受け入れられるっていうか(笑)。作品を観て神里くんの何かがわかるとは思わずに観ているし、そこがつながってなくても別に私も困らない、みたいなところがありますね。でも考えてみれば不思議なことですね。
大学4年のときも、いきなり「港の関係の仕事につくことになった」とか言われて、「なんで?」と聞いても、ふにゃふにゃちゃんと答えてくれなかったり(笑)。
――大崎さんが神里くんのテキストについて感じてることはありますか?
大崎 テキストだけで組み立てられる人なんだな、って思います。「何かをうまく描写する」「ここにあるものを書き写す」っていうことじゃなくて、「テキストに全部の世界がある」っていうことが見えてる感じがするっていうか。
――言葉で為したことが世界になる、という。
大崎 言葉以外にはなにもないことがわかってるというか。「うまく言えない」っていう言い方があるじゃないですか。「うまく言えない」というのは、何かがそこにあって、それをうまく言葉にできない、っていうふうに考えることだけど、そういうふうには考えてなくて、うまくいくもいかないも、言葉のレベルでしかない。神里くんがどういうふうに考えてるかわからないけど、言葉がある場所でしか起こらないことがされてる。
――なるほど。だからこそ、言葉がすごく変な接ぎ木されている感じがいつもあるのかなぁ。
大崎 そうですね。

「テキストに全部の世界がある」というのは、なるほどなと思った。
これは神里くんが既存の戯曲を演出するとなぜ魅力的に思うのか、というところに通じると思う。作家の言葉を接ぎ木して「書いている時間」、言葉が世界を生み出す時点に迫り、感触を手づかみで取り出してくるような印象を持つことがある。だからこそ、全体の構成から想像したり、大枠から逆算的に解釈するのとはまったく違う相貌が立ち現れるのではないか。
あと、同じところから、例えばサンプルの松井(周)さんのように、戯曲を書くことと演出することが互いに刺激しあい循環するような「作・演出」と違って、神里くんがはっきりと「作家と演出家は別」と断言する訳も受け取れてくる。そして、神里くんの人となりと演劇作品が別のことに思われる理由も。

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